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芦安鉱山跡 探検記・2021年

芦安鉱山跡 探検記
南アルプス36店主を探せ
南アルプス36店主を探せ

その昔、南アルプス36のあるここ芦安(の山奥)には、鉱山が存在しました。

芦安鉱山
写真:南アルプス市ふるさとメールより

その名は「芦安鉱山」。
開鉱は1914年。大正3年ですから今から100年以上前の話。
最盛期である1930年代には300人近い従業員とその家族が山深い谷に設けられた鉱山周辺の集落で生計を立てていたといいます。

今回のブログでは、私が2021年に友人と二人で芦安鉱山を目指した1泊2日の旅の記録を残しておきたいと思います。

芦安鉱山の歴史

旅の記録を綴る前に、芦安鉱山について触れておきたいと思います。

芦安鉱山は芦安から徒歩で3、4時間ほど登ったドノコヤ峠の山腹にあります。鉱山まで車で行くことはできず、川沿いの急な斜面や人ひとりがやっと通れるような細い山道を使わなければ辿り着けない場所です。

芦安鉱山が開鉱したのが1914年(大正3年)。
芦安と境界を接する早川町のドノコヤ峠北斜面の中腹に銅鉱が発見され、その後、東京の実業家が県に採掘を出願したことで鉱山としての歴史がスタートしました。(ちなみに、ドノコヤ峠の名前の由来は「銅の小屋(銅之古家)」だったり、「土ノ木屋」「銅之古家」など諸説あります)

開鉱から7年後の1921年には、ドノコヤ峠から桃ノ木沢(現在、桃の木温泉がある場所から少し山奥へ入った付近)まで鉱石・物資輸送のための索道が作られ、さらに5年の歳月をかけて桃の木沢から現在の芦安の中心地となる西河原までの林道が作られました。
今は桃の木温泉まで車で行けますが、それでも谷沿いの急な坂道を走らねばなりません。西河原からドノコヤ峠まで重い荷物を背負っての物資輸送など、当時の方々の苦労が偲ばれます。

そして1937年、戦争の勃発に伴う資源の増産体制により芦安鉱山は活況を極めます。
ドノコヤ峠の険しい急斜面が整備され、最盛期には300人とも言われる従業員とその家族が40棟ほどの長屋で生計を立てていたといいます。現在の芦安の人口が200名ほどですので、最盛期の芦安鉱山では現在の芦安よりも多くの人が暮らしていたことになり、当時はそれなりに活気溢れる場所だったと想像できます。そのため芦安鉱山で暮らす子供達のために、芦安尋常小学校(現在の南アルプス市立芦安小学校)の分校が建てられ、多い時で20名ほどの子供が分校に通っていたそうです。

しかし戦後、外国からの安価な鉱石の輸入により1956年に閉山となり、分校も閉校となりました。

芦安鉱山への険しい道のり

1956年に閉山してからは、芦安鉱山を訪れる人はほとんどいなくなりました。

当時鉱物を運び出していた険しい林道は荒れ果て、容易には近づけない場所となるにつれ、人々の記憶からも次第に忘れ去られた場所となっていきます。(実際、芦安のある南アルプス市でも芦安鉱山を知っているのは高齢者がほとんどで、この地に鉱山があったことを知る若者はほとんどいません。芦安鉱山の話をすると「そんな場所があったのか?」と皆さん驚かれます。それほど地元でも忘れ去られた場所になっているのです)

しかし、閉山から50年が経過した2005年。
地元・芦安小学校の生徒が芦安鉱山の歴史を学び始めたことで再び芦安鉱山への道が開かれることになります。当時6年生だった生徒8人が総合学習の一環として芦安小学校の歴史を学び始めました。
その過程で分校の存在を知り、芦安鉱山に残る分校跡地への訪問を計画したのです。

しかし、芦安鉱山のあるドノコヤ峠までの林道はすでに荒廃し、小学生が安全に歩ける場所ではありません。そこで、その計画知った地元のNPO団体「芦安ファンクラブ」がその趣旨に賛同し、旧登山道の整備を行ったのです。(当時、芦安小学校の生徒が作成した芦安鉱山の模型は、今も南アルプス市芦安山岳館で見ることができます)

これにより再び芦安鉱山への道が開けましたが、なにぶん奥深い山道です。年月を重ねるごとに再び道は荒れ果て、今現在も気軽に訪れることのできる場所ではありません。

芦安鉱山探索へ出発

さて、前置きが長くなりましたが芦安鉱山へ出発するとしましょう。
桃の木温泉から少し入った林道に車を停め、そこから徒歩で芦安鉱山を目指します。

桃の木温泉を出てからしばらくはこのような河原を歩きます。

荷替場のあった場所。
写真中央より右上方面に登ると登山口となる。
道に迷わぬよう木に巻かれたピンクテープを頼りに進む。

熊による破壊防止のために金属で作られた道標。
ドノコヤ峠← →芦安とある。

こちらも同じく金属製のレトロな道標。

以前に整備されたルートが崩落した為、羽の向きが現在のルートに合わせて変更されている。
現在は写真右上へ進むとドノコヤ峠だ。

ここで同行者Tさんの荷物が崖へ落下!
貴重なあんぱんと缶ビールを消失することになる。

左側は崩落地。
崩落地の上ギリギリを通って抜けます。

ここにも金属製レトロ道標が。
左上には目印のピンクテープも巻かれている。

以前の林道は写真左方面にあるが、現在は崩落しており、新たに写真上方へ向かうルートが取られている。以前の道にはロープが設置してあり、通行不可能ではないが、ロープが弛んでいたり、途中途切れているところがあるため、追加整備が必要。

約3時間ほどでドノコヤ峠に到着。2月ということもあり雪がしっかりと残っている箇所も。奥に見えるのは金属製レトロ看板。手前は南アルプスフロントトレイルの道標だ。

ドノコヤ峠から見える北岳。

ドノコヤ峠から芦安鉱山へ向け斜面を降下。

奈良田の文字が。この辺りが南アルプス市と早川町の境界となる。

斜面を降りると河原に出る。
河原を下りて行くとすぐにドノコヤ沢本流に合流する。しばらく進むと大きな岩が眼前に。読み取りづらいが「芦安鉱山入口」と書いてある。

出発から4時間30分で到着。
ここが芦安鉱山の入口だ。
今日はここでテント泊。明日、朝からゆっくりと芦安鉱山を探索する予定。

翌朝、芦安鉱山へ入るとすぐに石積みの遺構が迎えてくれる。
昔はここに商店があったらしいが、300人が暮らした当時の面影はない。

鉱山の中心部だったと思われる場所。
立派な石積みの遺構があり山の斜面に広い平地が整備されている。
昔はここに住居でも立っていたのだろうか?

こちらは火薬庫として使われていた小屋と地面に落ちていた生活痕の数々。
食器類や調理器具類、馬の蹄鉄も落ちていた。

食品の空き缶や空き瓶が散乱していた。牛肉の大和煮、みつ豆、醤油。

火薬庫からのパノラマ撮影。左奥には南アルプスの主稜線が。

住居跡と思われる朽ち果てた小屋。
300人の鉱夫と家族が暮らしていたとはにわかに信じがたい場所となっている。

芦安小学校の分校跡だろうか?

学校跡の近くにある架線を辿って北西へトラバース。

ここが坑道跡。
今はコンクリートで塞がれている。周りの岩が赤茶けている。

さらに奥に進むと、坑道跡とずり場(岩石捨て場)に出る。
かなり急な斜面だ。奥に農鳥岳が望める。

午前10時。帰路へ。ドノコヤ沢より農鳥岳を望む。

行きに撮り忘れた金属製レトロ道標。鉱山跡と書いてある。

南アルプスフロントトレイルと以前の道(桃の木温泉〜ドノコヤ峠)との合流地点。これが使えるように整備したい。

ロープを使ってのトラバース。ロープが弛んでいるので慎重に。

こちらもロープを使ってのトラバース。ロープが途切れている、、、

まとめ

芦安鉱山へは日帰りでも行けなくはないが、標高差があるので野営での1泊2日がオススメだ。

過去に整備された林道は年月が経ち倒木や崖崩れによって荒れている箇所も多く、目印が少ないためとても迷いやすい道といえる。近年の廃墟ブームで訪れる人もいると聞くが、単独で行くのは危険。しっかりと準備をした上で複数人で訪れるのが無難だろう。
本記録は登山・ハイキング用地図サイトのヤマレコにもUPしているので併せてご確認ください。

  1. 清水

    旧白根町に住んでいる者です。
    50代ですが初めて知りました。
    お疲れ様でした。

    • memes815

      コメントありがとうございます!
      芦安山岳館に芦安鉱山等の展示や資料がございますので、
      ご興味があれば覗きに行ってみてください!

      南アルプス36・青山

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